思えば、私という存在は元来「才能」というものからは遠い存在だった。無論、身の回りにおいてそういう類の存在はありふれていたが、自身にあてはまるものではなかった。
今日はそんな才能の話。
勉強も、字も、お花も。
運動も、踊りも、音楽も。
授業も、接客も、営業も。
ゲームも、創作も、配信も。
何一つとして一番になることも、人より秀でたことも、自覚としてはない。
常に「最初はだれでもそんなもの」と言い聞かせて続けて続けて続けて
最後に「あぁ、やっぱり駄目だった」なんて笑って全てを手放す。
そんなことをこの長い生の中で何度繰り返しただろうか。
周りがどんどん進んでいく中で私だけ取り残され行く感覚はいつまで経っても忘れられない、上書き保存されるからだ。
それをつらいと思えども、何か一手が足りないからと言い訳をすることはなかった。
あれだけやっても無理なら仕方ない、できるだけやったのだからそれで良い。
この辺りは存外からっとしている自分の精神が役に立つ。
後悔が波のようにざざぁんと寄せては返してもそのうち乾く、それはどれだけありがたいことだろうか。
いや、問題はその後悔の波が定期的に長く来るのがダメなんだけれどそれは今回の話とはちょっと趣旨がずれるので割愛。ごめんね。
継続は力なり。
継続なんて正直サルでもできると思っている。今でも。
それをさも自分だけしかできていないとでも言いたげにしている自分は
正直見ていて痛々しい。
みんなやる意味がないからやってないんだ、毎日動画投稿や毎日配信なんて。
私はそれをすることしか思いつかないからやっている、毎日動画を投稿して定期的な配信をする。
本気でそう思っていた、本当に、若干今でもそういう節がある。
でも多分それはちょっと違うんだろうなとこの界隈を見ていて思った。
本当にできない人はいる。どちらかというと私はできる方だった。
去年のこの時期ですら、私は平日毎日動画を上げていた。
もっとどうしようもなかったのかと思えばそうではないらしい。
あの頃の自分を悪く言うのはもうやめてあげようと思った。
去年は去年で頑張っていた、ただ今もっと頑張れているだけだ。
何が書きたかったんだっけ、そうだ、思い出した。
いつもご視聴いただいてありがとうございます。
以上。
追記
でも一つだけあるなと思ったのは、感情表現は才能に近しいものがあるのかもしれない。
三連敗中のあのゲームシリーズはきっと「私」をいつまでも支えてくれる気がする。
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