五十一年前の春の日の話。
地域差時代差あります。
「歌野。」
後ろからそっと囁かれて溜息をつく。古典の授業の先生はあまり私たち生徒の方を向く事がないけれど、私語にはそこそこ厳しい。教書と読み上げ、そして板書の内容を確認して少し振り返る。
「なに。」
「昼、空いてる?」
「空いてる、けど。」
「頼む。」
「……。」
高校二年生の冬。高校生活の最後も目前という時に後ろの席になったのは、遅刻常習犯のとんでもないやつだった。遅刻した日は必ずこうしてお昼ご飯の代行を頼まれる。うちの高校は近くの食品工場から直接おばちゃんが持ってきてくれるけど、量が少ない。それを知っている学生はお弁当を作ってくるけど、運動部の男の子たちはそうはいかないらしい。そして今日、また遅刻してきた彼はお昼に職員室に呼び出され、私に代行を頼んできた。
「な?」
「分かったから……。」
私たちのヒソヒソという話し声は、教卓後ろまで届くとは思えない。しかし何やら雰囲気を感じとったのか先生の板書が少し緩やかになる。振り向く合図だ。慌てて体勢を戻して板書をとる。幸い窓側の一番後ろとそのひとつ前という幸運な位置取りなので、まず気付かれるはずはない。なのに、何故だろう。嫌な予感がする。
「歌野。」
「ひ、ひゃい!」
「……ここ、訳せ。」
「え、は、はい!えっと……。」
たどたどしくはあるものの予習してきた訳を読めば、満足気な言葉が掛けられた。息をついて後ろに視線をやれば、さっきの今で机につっ伏す馬鹿一人。
「後で写させてやってくれなー。」
「……はぁい。」
「次はねぇって、言っとけ。」
優しいのか優しくないのか。兎にも角にもこうして後ろの席の彼とつつき合いももう二ヶ月になる。来年度は別の組がいいなぁと独りごちて、それが叶わないことは何となく分かる。
理系と文系で分けられるんだから、どう考えても同じになる。何を隠そう、私も彼も理系で選択科目まで同じなのだから。数少ない物理学選択者の私と彼とは、ずっと一緒に居るんだ、と。
「卒業式、か。」
だから、もしかしたら少し寂しそうにしているのかもと一年前を振り返って笑う。
あの後、無事に学年を進級し、例のごとくまた二人しかいない物理室で授業を受けて、夏休みに入った。そして彼は秋学期から、一人になった。私が「死んだ」からだ。山伏としての力が安定してきた私は近くにある温泉旅館に特別枠で雇ってもらえることになった。その道すがら、かつて通った高校が見えた。そう、彼が冬学期に入って二十回目の遅刻をしたから呼び出され、お昼代行の話をして寝たあの日からちょうど一年が立った日だった。
バレるのが怖くて少し隠れて看板を見る。赤と白の花で飾り付けられ、真ん中に達筆な文字で卒業式と書かれている。電柱の影からこっそり、まるで覗き見するように見る自分の姿が浅ましい。けれど、何故か真っ直ぐは見られなかった。
「やめよ、こんなの。らしくない。」
ズキズキと痛む胸を擦りながら、背を向ける。なんだか今日は調子が出ない。
「馬鹿みたいですね。」
あの狭い物理室で巫山戯て笑って過ごした時間が鮮明に描かれてゆく。いつのまにか奪われていたのだと自覚する。
預けた心は今何処に。
0コメント