『逃げて。強く、生きて。ごめんね。鶴葉。』
その音節に鶴葉の意識が戻る。
荒い呼吸音に大きく跳ねる背中を噴き出す汗がつ、と伝う。
「あ、ぁ……あぁ……。」
最近いつも同じ夢を見る。ひとりの女の子としての最後の日に見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れたものが今なお鶴葉の体を蝕んでいる。
あの日から五年、あの悲しみを忘れた日はないものの、その日々は穏やかで平和だった。しかし、そんな平穏な日々を一日、一日と過ごすたびに、鶴葉の見る悪夢は色を濃くしてゆく。
「お母さん、お父さん……。」
震えた声で吐き出した言葉に、また鶴葉は体を抱いて怯える。自分で発したはずのその音が、平穏な日々を過ごす彼女を責めるように響いたのだ。
声にならない絶叫が部屋に響く。
夜半の月だけが、彼女の恐怖を知っていた。
蒼炎を詠う
歌野鶴葉(うたのたずは)はその辺りでは名のある商家の末娘だった。歌野と言えば、近隣の人々に知らない人はいない、奇跡的にも大戦による被害が少なく、さらに地元から愛される商家だ。
明朗快活な母に、温厚で優しい父、そして仲の良い子供たち。すべての人が羨みはするものの、決して妬みも嫉みもしない、本当に非の打ちどころのない家だった。
だから誰も信じようとはしなかった。その商家の屋敷が襲撃され、一族郎党、屋敷諸共焼け落ちたなどと。しかし村の人々が見たそこには、何一つ残ってはいなかった。
雑木林から控えめに顔を出す瓦葺の屋根も、子供たちが楽しそうに塗り替えていた壁も、地元の彫り士が贈った"歌野"を彫った木の表札さえも、全てが黒い煙と灰となった。
当然犯人探しが行われたものの、有益な情報など見つからず、もう時効を待つばかりとなっている。
捜査の続行を希望する地元の農家の人々は、「不運な事故」とするよう警察から圧力を受け、その後あてがわれた新しい商人に農作物を安く買い叩かれる苦労を強いられるのであった。
その様子を、鶴葉は知っていた。
幸いにも彼女に与えられた力は飛行を可能とする。特別な交通機関などなくともわずかに羽を伸ばせば、届く距離に彼女はいるのだから。
当然、焼け落ちた屋敷もその目で確認した。そして、自身の死亡報道も。
その日から、鶴葉は毎晩悪夢にうなされるようになった。
蔵にいたため直接の襲撃を避け、さらに母に逃がされた鶴葉は、死に物狂いで歩いているうちに、人間では入ることのできない場所に入り込んだ。そこで現在の育ての親にあたる"はは様"こと熊に拾われ、山伏……山不死となった。
そこからは自身の出自などを思い出す間もなく、与えられた力の制御や歴史の勉学に励んでいた。その間、鶴葉は悪夢を見ることなどなかった。そう、正しくは、思い出す間もないように体を動かす動かしていただけだった。
そして生活が落ち着き、独り立ちしたその日に、鶴葉は誰にも行き先を告げずに生家へと飛んだ。
そして過去に憑りつかれてしまったのだった。
「鶴葉ー?」
「え、あ……。」
「なんか、最近ぼーっとしてんね、どうした?」
名前を呼ばれて鶴葉はハッとする。共に朝ご飯を食べていた雪輪と灰鯉の心配そうな表情が見え、鶴葉は慌てて茶碗を置く。同時に様子のおかしさを指摘したのは長女たる雪輪だった。
「……ううん、なんでもない。ちょっと昔のこと思い出してただけです、雪輪ねぇ様。」
「そぉー?ならいいけど。」
何かを隠す用の鶴葉に気付いた雪輪であったが、それを深く聞くほど彼女ももう若くない。そっと押し黙り、朝食を食べる手を開始する。しかしそれを制したのは他ならない、もう一人の兄弟の灰鯉だった。
「……姉さん、よくない。最近、鶴葉は可笑しい。」
「ちょ、ちょっと、灰鯉にぃ様、なに言っ……。」
「復讐、しようだなんて思っているわけじゃないよな?」
「ふくしゅー?」
「っ、そんな、そんなこと……!」
「最近よく行ってるって、聞いた。」
「なんでそんなこと、灰鯉にぃ様には、関係な……!」
「鶴葉。」
これも全ては灰鯉なりの優しさであることを、今の鶴葉には理解ができなかった。そして語気を強める鶴葉に、雪輪の凛とした、冬の空気を思わせるような声が鶴葉の言葉を止める。そこでハッと我に返った鶴葉はわなわなと震えだし、そのままその食卓を離れた。
「鶴葉、待て!」
「灰鯉、ほっといてあげな。」
「でも姉さん、あいつは!」
追いかけようと立ち上がった灰鯉を、雪輪は声も荒げずに発した言葉で座らせる。しかし様子の可笑しい鶴葉のことがどうしても気にかかる灰鯉は感情的に高ぶったまま、姉に言葉を投げつけた。
「分からないじゃん、私たちには。」
「え……?」
音を立てずに味噌汁をすすった雪輪はその器を眺める。ゆらゆらと揺れる液体に反射して映るのは、角の出ている自分の姿だった。人の世では、これを仕舞った生活を強いられる。彼女の父や母もそうしていたように。
「山伏はさ、器なんだよ。」
「……姉さん?」
「鶴葉はまだ、器に嵌りきっていないんだよ。」
「人間の頃の、記憶がまだ強く残っているってこと?」
そう聞き返す灰鯉にそー、と気を抜けた返事を雪輪は返す。
「あの子は嫌がるだろうけどねぇ……自分の飲めないものに例えられるのは。でもまぁ、日本酒になりきれていないお米だね、今は。」
そう言って、雪輪は笑った。
一方そのころ、鶴葉は言葉にならない感情に身を任せて空を飛んでいた。空を飛ぶのは気持ちがいい、それを知ったのは山伏になってからだった。晴れ渡る夏の空は雲が少なく、他の人間に見られる可能性もあったが、それを気にしていられるほど今の鶴葉に余裕はなかった。
ひとしきり、気持ちの赴くままに飛び去った先、そこは他ならない過去の生家だった。
「五年、か……。」
時の流れは残酷であった。月日が流れるとともに、そこからはどんどん焼け跡が撤去されていった。事件から一年も経たないうちに、そこは綺麗な更地になっていた。それを鶴葉は悲しいとも、悔しいとも思わなかった。
ただ、空しかった。
「あんれまぁ……。」
「えっ?」
「たずちゃん、じゃぁねぇのかい。」
「え、あ……。」
「きれぇな羽つけて、おどろいだなぁ。」
「……。」
多年草が生えそろい始めた更地にたたずむ鶴葉は、突如現れた老婆に驚いて羽を隠すタイミングを失った。よく見れば、それは近所の農家のトメであることが分かる。
最後に見てから五年の月日が経った今、その腰は曲がり、しかし手元には鮮やかな花束が抱えられていた。
「もう、おらもおむかえがね?」
けたけたと笑いながら告げられたその言葉に、鶴葉の心がじんわりとほどけるのを感じた。
「そんなことないよ、トメさん。トメさんは、まだ生きなきゃ。お孫さん、東京の大学院からこっち帰ってくるんでしょ?」
鶴葉の父は地元の人間であったが、母は東京出身だった。だから鶴葉はこの土地の言葉を使わない。酒に酔ってべろべろになった父の言葉は分からないが、それでもこの土地の言葉は耳馴染み深いものだった。そしてそれを知るからこそ、トメの目から涙がこぼれた。
「たずちゃん……。」
「トメさん、大変だろうけど、私きっとみんなのこと守って見せる。お父さんとお母さんみたいに。だから、このことは内緒ね。もうちょっとだけ、待ってて。」
それだけを言うと、鶴葉は地面を蹴った。もうその目には恐怖も迷いもなかった。ただ一筋、小さな宝石が零れただけだった。
空は青く、その色が鶴葉は好きだった。
しかし夏が嫌いになった。鶴葉からすべてを奪ったからだ。
「でも……もう、大丈夫。」
夏がまた好きになれた。鶴葉にすべてを与えたのだから。
靡く黒髪がざわりと質を変える。
夏の空に合わせるように、空気を多く含んで燃え上がるよう炎のように、それは蒼く碧く、色を変えた。
勢いあまって着地に失敗したものの、家の庭に下り立った鶴葉を見つけた灰鯉が室内から飛び出してくる。
「鶴葉、どこに行って、それに、髪、どうしたんだ!?」
慌てた様子の灰鯉にしばらくぽかんとした鶴葉はくすくすと笑いだし首を振った。
「ううん、なんでもない。さっきはごめんなさい、灰鯉にぃ様。髪は……なんか、色が変わっちゃったみたい。」
「……怪我は、してないな。」
「うん、大丈夫です。」
「おぉー日本酒になった。」
「雪輪ねぇ様!」
灰鯉に続いて外に出てきた雪輪は、その日差しの強さに目を細めながらも鶴葉をしっかりと見つめる。
「うんうん、新しい色もいいと思うよ、妹氏。」
「そう、でしょうか?ちょっと自信がないのですが……あ、ところで日本酒ってなんですか?」
「いんや、こっちの話。」
意味深に笑う雪輪に意味の分かっていない鶴葉は首を傾げるものの、灰鯉に促されて三人は室内へと戻る。
その日以降、鶴葉が悪夢にうなされることもなくなり、鶴葉は外で仕事を始めた。山のふもとにある温泉旅館は山伏たちに一定の理解があるため、そこで働き始めた。その理由は彼女自身が火を扱えるからというもの大きく関係していたが、本当の理由はそこにはなかった。
件の新しい商家に対して一定以上の取引を持ち掛けるためだった。もともと勉学が得意で、かつ算術が秀でていた鶴葉は、トメに宣言した通り、生まれ育った地元の農家たちを助けたのだった。
「そえでさぁ……とめしゃ……んぅ……。」
「あらあら。自分から日本酒飲むっていうから何かと思ったら……。」
その日は三人の母も参加しての晩餐であった。
次の日の朝が早いという理由で早々に寝室に行った雪輪と積んでいるゲームの消化と称して自室に戻った灰鯉をよそに、「八鶴」を持ってニコニコしていた鶴葉はもののみごとにおちょこ一杯で潰れた。
いつもなら何のためらいもなく開けるビールも飲まずにおとなしくしていると不思議に思っていた母は、むにゃむにゃとどこか幸せそうな鶴葉の蒼い髪を撫でる。
「ねぇしゃま、が……にほんしゅって、いうんだもん……。」
「雪輪が?」
「そのあと、かいりにぃさまもねぇ……おこめが、おしゃけに……うちゅわが……あうぅ……ってぇ……。」
「んんー?あぁ、なんだそういうことか。」
「ねぇ、ははさま……。」
「どうした、鶴葉。」
「わたしは、おとうさんのように、あのまちのひとたち、まもれたかなぁ……。」
その音は、まるで澄んだ秋の夕暮れに落ちる紅葉のような儚さだった。
「……もちろん。あんたはがんばったよ、鶴葉。鶴葉?」
母の言葉を聞いてか聞かずしてか、鶴葉はすやすやと寝息を立てていた。ため息をつきながらも、娘を見つめる母の眼は優しかった。
「人の子は、いつだって私たちの想像を軽々と超えていくのね……。」
そのまま寝付いた鶴葉は、母によって部屋に運ばれ寝台に横たえられる。幸せそうな寝顔を、風に揺れた窓掛けの間から差し込む月光が照らす。
「鶴葉、寝た?」
「すぐ寝落ちするタイプか。」
「あんたたち、なんで……。」
鶴葉の部屋を後にしようとしていた母に、雪輪と灰鯉がそれぞれの部屋から顔を出す。
「鶴葉、多分私や灰鯉がいたらあれこれ世話焼いて頑張っちゃうかと思って。」
「いない方が好きに酔えるかなって、日本酒飲みたがってたのは知ってたから。」
「よりによって甘党のあの子に辛口勧めたのはどっち、白状なさい。」
お互いに視線を合わせた姉と兄はそれぞれ、互いを指さした。
「いや、姉さんでしょ。」
「灰鯉が悪い。」
「じゃあ罰として、片付け。」
「えぇ!?」
「……はぁい。」
居間へと向かう母に、肩を落としてついていく雪輪と灰鯉はそっと妹の部屋を覗く。
「おやすみ、鶴葉。」
「おやすみ。」
もう夜半の月だけではない。
皆が鶴葉の幸せを願っている。
蒼い炎は、酸素をたくさん含んだ燃焼温度の高い炎です。
炎色反応の方も考えてみたのですが、RbとCsで迷ったのでやめました。
方言は適当です。
あとではは様に聞いたら直すかもしれません。
黒髪鶴葉じゃないとトメさんが分からない可能性がありました。
それとは別に、もともと人間の"歌野鶴葉"が"山伏の鶴葉"になるにあたって
他の二人の子供たちとは違ったところを出したいと考えた結果
髪の色を変えることにしました。
いつか八鶴を飲んでみたいです。
多分一口でこうなります。
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