山に漂う異なるものは、生きとし生けるものを脅かすだけでなく、土地を蝕むことが多い。それを時にあやし、時にうつ、それが山伏としての役割である。
山の一番近いところには他の山伏たちを統べる"母"としての役割を担う熊が住んでいるという。それゆえに信神深い周囲の人々は山を、そして土地を守るその熊に対しては決して無礼を働かないようにと幼いころから教えられて育つという。
山から少し離れたところには、その熊が育てる"子供たち"が住む。それぞれ別に個人の家はあるものの、子供たちは大変仲がよいために寝食を共にすることが多いのだという。
そしてその日。
それを知ってか知らずしてか、子供たちの家にまだ形も成さないような異が忍び寄っていた。
焔を振う
「ふんふん、ふーん。」
エコバッグを片手に携えた少女、鶴葉は何やら上機嫌に鼻歌を歌いながら夕暮れの街を歩く。幾分日が落ちるのも早まり、寒さが身に染みるのか頬や鼻頭もほんのり赤く色付いているものの、その表情は明るい。
彼女もまた山伏の一人であり、山を異から守る役割を担う。そして山伏の中では唯一元が人間であり、他の山伏の奔放さに振り回されることも多い。そんな彼女だが、今回このように上機嫌なのは他でもなかった。理由は右手に携えられている大きく膨らんだエコバッグにある。どうやらスーパーの特売でほしかった具材をたんまり仕入れることができたらしい、頭の中では何を作ろうかと料理本のページが一枚また一枚とめくられているだろう。
そして、不意にその足が止まる。
「……え?」
思わず零したのは吐息交じりの驚愕の音だった。ジワリとした恐怖感がその身を襲う。何かを警告するように洋服の下に仕舞ってある輪が高い音を鳴らした。異を、察知したのだ。
その瞬間に鶴葉は様々なことを一瞬にして巡らせる。
街まで下りてきた異、山にいる存在たちに何かあったのかもしれない。
目と鼻の先にある家、冬の間は体力の落ちている彼女の兄が寝ていることが多く下手をすれば巻き込みかねない。
全てを考えた結果、周囲を確認した鶴葉はそのまま地面を蹴った。
足裏から噴出した炎で軽く浮かび上がる体に、びしびしと異が纏いつこうとしているのが分かる。それを何とか維持しながら背中から特徴的な羽を出せば、体は安定する。しかし思った以上に重かった。そう、右手のエコバッグ、彼女の今晩の戦利品が。悔しそうに唇を噛むものの、諦めてそのエコバッグから手放す。あえて少し角度をつけて落とすことで、道路に落ちることはないだろう、という計算を終えた鶴葉は異を体に纏わせたまま"山"へと向かった。
「あ、あ、うわ、ちょっ、やば、あぁ!?」
異によって飛行の態勢が崩され、山肌にたたきつけるように着地をした鶴葉は慌ててその体を起こす。常日頃から着地は苦手だったため、受け身と回避行動だけはやたらとうまかった。怪我の功名だ。
「えっと、その……こんなところまで連れてきてなんだけど、あの、私より、はは様のほうがこういうの慣れていてね?」
声を掛けるものの、その靄は何も反応を示さない。
「私のところにいると、痛いことになるの。」
もう一声、とかけてみるもののその靄が動くことはなかった。そして鶴葉は思い出した。今日は山に母はいない、出かけているということを。
「……そう、分かったわ。」
そう言って鶴葉は諦めたように異を見つめた。
刹那。
周囲の気温が一気に上がる。一人と一つを、赤い炎が包み込む。しかしそれは周囲の草木を燃やす様子はない。ようやくたじろぐような様子を見せた異に対して鶴葉は笑顔を向ける。
「ごめんなさい、私、ちょっと乱暴なんです。」
そう言った鶴葉の手には一本の朱い薙刀が握られている。身の丈ほどもあるそれは、純度の高い鶴葉の炎によって形作られたものだった。
ぶおん、という音と共にそれを構えた鶴葉は先ほどと同様に足裏からの炎による加速を使って一気に怪異との距離を詰める。左足で踏み込み、得物の間合いとなるその数秒前に薙刀を振り上げれば、当然異はそこから逃げようとする。しかし鶴葉がそれを目で追うこともなかった。振り上げた"焔"を右に薙ぎ体を捩じる。そのまま再び炎を噴かせて左足を浮かす。そして、右足の着地と共に薙いだ"焔"を自重に任せて振り抜く。ごう、という鈍い音と共に薙刀は異に当たり、ゆらりとその存在が薄れる。しかし、その瞬間に鶴葉は動いていた。踏み込んだ右足に向けて地中から伸びていた異の触手のようなものを薙刀で上から一突きして動きを止める。さらに後ろについた左足に体重をかけて異との距離を取る。
「っつ……いたた。」
彼女の左足からじんわりと何かが漂う。それは飛行中に異が仕込んでいた毒に近いものだった。体の中を何かが這いまわるかのような気持ち悪さを覚えるものの鶴葉は薙刀を地面に突いて目を閉じる。周囲を取り囲む炎がまた一段階出力を上げ、その一部が彼女の左足のふくらはぎ辺りにまとわりつく。焼きつくような痛みに、鶴葉は僅かに顔をしかめるものの、その足から異の仕込んだ毒は消えた。
「……もう怒った、絶対に許しません。」
再び開かれた瞳は怒りに燃え、下ろさていた蒼い髪は炎の紐によって高く一つに結われた。先ほどよりも純度の高い出力で動き出した鶴葉を、異は捕らえることができなかった。最後に見たのは一つに結われた蒼い髪、それがまるで流星のように輝いて、そして堕ちた。
「うわぁん、おにくぅ……もう絶対だめになっていますよねぇ……。」
先ほどまでの勢いはどこへやら。結われていた髪は下ろされ、落としたエコバッグを探してへろへろと道を歩いていると、そこには親子が立っていた。一縷の望みをかけて鶴葉は母親らしき人に声を掛けた。
「あ、すみません、ここらへんにピンクのエコバッグ、落ちていませんでしたか?」
「おねーちゃん!」
「あばっ!?」
母親に声を掛けた鶴葉の足元にダイレクトアタックを決めた少年に鶴葉の出してはならない情けない声が飛び出す。それを諫めながら、母親らしき人は優しく鶴葉を見る。
「貴方かしら?」
「はへ?」
「実はね、うちの子が、貴方が変な奴に攫われたって、その時にバッグを落としたって言っててね。」
「え、えぇ!?」
「おねぇ、ちゃん、さらわれちゃったかと、おもってぇ……ひぐっ、うぅ……。」
「あ、あぁ、えっとぉ、大丈夫ですよ!お姉さんはこーんなに元気です!」
「ほ、ほんと?」
「うん、もっちろん!心配してくれていたんですね、ありがとうございます。」
少年の言葉にすっとその場にしゃがみこんだ鶴葉がその頭を撫でる。にこにこと笑みを浮かべる鶴葉に釣られて、少年の顔にも笑顔が咲く。
「あ、おかあさん、おねえちゃんの……。」
「はいはい、今持ってくるからね。」
すると少年が思い出したかのように母親を見上げ、母親はほど近いところにある一軒家に姿を消した。そして少し汚れてはいるものの、鶴葉の持っていたエコバッグを持ってきた。
「あ、もしかして拾っておいてくださったんですか!?」
「えぇ、ちょうどうちの庭の方に落ちていたの。それで、この子が、お姉さんが空から落としたって、言うのよ。」
「……えっと、はい、ちょっと、事情が、あはは。」
「ふふ、分かっているわ。痛みそうなものはなかったし、ちょうどこの子の遊び場の砂場に落ちていたから、中は無事みたい。」
「わぁ、もうなんと言って良いのやらです……ありがとうございます!」
そして立ち上がろうとした鶴葉の肩をぐっと少年がつかんだ。
「はへ?」
「こんどは、ぼくがまもる!」
「あらあら?」
「おねえちゃんのこと、あのへんなのから、ぜったい。」
「……はい、守ってくださいね。」
「やくそく!」
「えぇ、約束です!」
そしてエコバッグを受け取った鶴葉改めて親子に礼を言って家へと帰る。母親の言葉通り卵すら無事なことに感謝しつつ、歓喜のあまりにエコバッグの中から探り当てた缶ビールのプルタブに指をかけた。
ばしゅ。しゅわぁ。こぽこぽこぽ。
「うびゃ……んっ!?」
溢れだす白い泡に慌てて口付ける。
「……なにしてんの。」
そしてそんな様子を見た灰鯉のあきれたような目に、鶴葉はまたも音にしてはならない声で叫ぶのであった。
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