仮想世界は現実世界の裏にある、そう言ったのは誰だったか。現実世界の御山での片付けを終えた山伏の鶴葉は、意識を集中させてその場所を探る。確かな手掛かりを掴んで目を開けば、そこはここ数ヶ月で慣れ親しんだオフィスだった。
仮想世界の特定プラットフォームにおけるデバッグ作業のサポート、それが彼女たちVtuberに課された使命だった。
「毎度毎度思うんですけど、間違った所に行ったりはしないんですかね?」
「鶴葉はもしかしたらありえるかもねぇ。」
のんびりとした口調で鶴葉の独り言に同意をしたのは机で優雅に湯呑みをかたむけている彼女の母、どーるだった。
「あら、はは様、事務所にいるだなんて珍しいですね。」
「今日はね、たまたまよ。」
「私もそろそろ任務出たいなーちらっちらっ。」
「いやいや、鶴葉の作る報告書はピカイチだから、ね?」
「……ですよね、ここの持ち場を離れる訳にも行かないですし、私そもそもチームプレイとか苦手ですし。」
「鶴葉ってば50年経って大分陳ねたねぇ。」
「置いていかれるとそうなるもんって前話したじゃないですか。はは様で言うと……うーん、西暦1500年頃?の感覚でしょうか。」
「母上、和暦で言ってくれないと分かりませーん。」
「えー何時代でしょうねー。」
ゆるりとした会話を続けながら、鶴葉はファイルを漁る。この仮想世界においては、ウィンドウを立ち上がらせれば情報をいくらでも探すことは可能だ。しかしわざわざ現実世界にあるような分厚いファイルで紙のようなもので管理しているのは彼女自身がそれに慣れ親しんできたからだ。
老害、行き遅れ、そんな言葉はもう何度も聞いたが鶴葉が耳を貸すことは無かった。
「もう婚期なんてとっくの昔に逃しましたし、今更何で行き遅れていたって結局仕事が出来れば雇ってもらえるのが世の中ですからね!」
「……えっ、急に?」
「なんでもないです、つい。」
「情緒不安定?」
「この間かつての同級生が孫とテレビ電話したとかでわーきゃー言ってたのが辛いとかそういうんじゃないです。」
「あっ……。それで?灰鯉からの情報は定期的に来てる?」
娘の地雷原が思わぬ形で顕になったことに苦笑を零しながら、どーるは背中を向ける鶴葉に仕事の話を投げかけた。
振り向いた鶴葉の表情はすっかり仕事モード、悪いものを滅するだけという仕事人の表情となっていた。
「はい、灰鯉にぃ様の情報はとても的確です。大手の……企業の方々では見えないバグの発見が多いです。それについては上からもかなりの評価をいただいています。」
「けど?って続きそうね、それ。」
どーるの指摘に鶴葉は流石と言いたげに頷いた。そして手にしたファイルを机の上に置き、情報共有のために大きなウィンドウを立ち上げた。どーるは体を起こしてそのグラフを見るが、鶴葉の言いたい問題点がはっきりと明示されていた。
「えぇ、その通りです。とにかく手が足りません。特に山伏というチーム、我々に課されたのはただの情報収集です。摘発されたバグや申請された不具合に対応するのは他の方々の仕事ですからね。門外漢もいいところです。」
「けど、現実世界で御山の仕事が無くなったうち、そして体を動かしたがる雪輪を含めて、山伏は現実世界でのバグ取りの経験があることから、お上も目を瞑っている状態、なんよね。」
「そういうことです。けど、今はもうどこも手一杯で……どこにも頼めないのもまた現状です。」
「そうよねぇ……誤BAN騒ぎやら何やら。AIについては、鶴葉、少し知識あるんだよね?何か思うところは?」
「それはなんとも……ただ、上もかなり混乱しているように見えます。AIの暴走とまではいきませんが、このまま放置していたらどうなることやら。」
「人手、ねぇ……。」
「どうします?彼女にはまだこっちの仕事を任せるのは早いかなって私は思うのですが。」
「けど、うちらが見つけ過ぎたものはうちらが処理するのが道理でしょ。」
「たしかに、そうですが……。」
煮え切らない鶴葉にどーるは立ち上がってその肩をとん、と叩く。
「そこらへんは、うちがなんとかする。鶴葉がいるから灰鯉がしっかり動ける、それに……。」
「遅れました、ごめんなさい!」
「やっほー、来たよー。」
どーるの言葉を遮って飛び込んできたのは先程話題に上がった雪輪、そして鶴葉の弟、どーるの可能性を秘めた息子の眼隴だった。
眉を顰めたままの鶴葉に近付いた雪輪がその眉間をグリグリとつついた。
「あだだだだ、雪輪ねぇ様、痛い痛い。」
「鶴葉、シワ増えるよ、そんな顔してたら。」
「あびゃ、あ……雪輪ねぇ様のそのぐりぐりもシワになるからー!」
「ほらね、雪輪も眼隴くんもいる。とりあえずやれることだけをやろう、人手は案外どうとでもなるから。」
「鶴葉姉さん、何か悩み事でもあったんですか?」
「うん、あの子らしい不安と悩みよ。さて、眼隴くんは鶴葉と作業をお願いしていい?雪輪はうちと出勤よー。」
どーるの言葉に鶴葉の頭を揉んでいた雪輪ははーいと返事をして身軽にそのオフィスを飛び出して行った。
「姉さん、大丈夫?」
「はは……雪輪ねぇ様はいつでもパワフルで凄いよねぇ。」
「じゃあ仕事、始めよっか。」
「そうですね、じゃあ眼隴くんは処理済みの案件を纏めて、上に報告する準備をお願いします。」
「了解。」
こうして今日も、ひとつまたひとつと、仮想世界に蔓延るバグが消されていくのだった。
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